『東京物語』あれこれ

「午前十時の映画祭」で『東京物語』を観てきたのだけど、とてもよかった。以前に一度だけDVDで見たことはあるのだけれど、これは映画館で観たほうが生きる作品かもしれない。ロー・ポジションから撮られた1950年代日本独特の室内空間、あの家具や障子が何層も何層も重なっている空間で、真ん中の女優にだけシャローフォーカスがピッと当てられている感覚は、ディスプレイやテレビよりスクリーンのほうが分かりやすい。欲を言えば、いつも座ってるスクリーンに近い席だとちょっとローアングルで仰観しているような錯覚を抱いたので、多少遠くてもスクリーンを真正面から見られる座席のほうがよかったのかもしれない。

医療関係職として個人的なクライマックスは(実際、映画的にもクライマックスだけど)とみの臨終間際、ちょっと大袈裟な下顎呼吸。カパッ,カパッと顎で息をして、時々間隔が空くと「いよいよか…!!」と言わんばかりに家族が覗き込む様子、すごい人間観察してるなぁという感じがした(病院で働いていてもなかなかあそこまで再現できない、というか実際はなかなか死戦期呼吸をまじまじと見る機会なんてない)。「トトやんのすべて」様の「小津安二郎「東京物語」のすべて」によると、とみの死因は脳溢血だったみたい。当初は「ふらっとする」前失神みたいな訴えとか、胸部症状とかだったから心原性のなんか?と思ったけれど、最後のドカンと来たときの症状をみてると確かに「あ、これが当時の日本人に典型的な高血圧性脳出血なのか」って感じがした(脳出血→血圧上昇→再出血→脳ヘルニア、的な流れ)。「アーデルラッスして、ブルートドルックは下ったんですが、どうもコーマが取れませんので……」「ああそうですか…レアクチオンが弱いですね」という、とりあえずドイツ語と英語をむやみに並べ立てた医師同士の会話は滑稽ですが、実際私がいまローテーションしている科でも(特に予後の悪い疾患の場合)患者さんの前でのディスカッションには専門用語を積極的に使うことと言われているので、他人のことを嗤えた立場ではないなぁというのがホンネ。ちなみに意味については「山口デスクの「ヨミドク映画館」」によればAderlassは瀉血,Blutdruckは血圧,Komaが昏睡,reflexionは反射(ここでは対光反射)だそう。今だったらニカルジピンという降圧薬なんだろうけど、当時は瀉血していたのかと思うとビックリする。ちなみに調べてみると、ニカルジピンが上市されたのが1988年、CCB全体として最初に合成されたのが1964年とのことで、意外と歴史の浅い薬であることにまた驚く。

話は横道に逸れたけれど、やっぱり今なお日本映画なんだろうなと思う(個人的には、そこまで好きじゃないし、そう何度も観たいと思う作品でもないけれど)。ブリュッセルかどっかで、街角の名画座でポスター貼られてたのが衝撃的で、今でも印象に残ってる(本当に、ほんとうに「世界の小津」なんだなと)。かたやお国の日本であまり上映されていないというのは残念だし、恥ずかしいことですらある。ぜひこの機会に映画館で。

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iTunesでLAMEを使うには

CDをiPhone(またはiPod, iPad)に入れるのに、LAMEを使ってmp3に変換している。音質が良いのか悪いのかは私の耳では分からないし、レビュー見ても意見が分かれる(というかmp3にすること自体が非常識っぽくなりつつある)ようだけれど、まぁ気休め程度に使っている。で、そのメモ。

MacではiTunes-LAMEを使うと便利。Winでは電脳スピーチblog様の作られたiGoinLM.jsを使うと便利。

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ぼく管3 沖縄 Blue Corridor ES5 Stage 3 攻略

『ぼくは航空管制官3 沖縄 ブルーコリドー』のエクステンドシナリオ5 ステージ3「Snake Dance 滑走路ははるか先に」の攻略メモ。ネタバレになるので畳みます。

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最近見た、企業PRアニメ。

アニメーションは(それ自身の芸術性を否定はしないけれど)基本的にはメディアであり、道具に過ぎない。企業のPRアニメーションというのは、そこを露骨に行ったアニメだと思う。印象派以前の画家のように、依頼主は自分の徳を高める要望をするし、製作側は注文のままに作品を作る。ちょっと近頃は増えすぎて食傷気味でもあるけど、そんな企業PRアニメーションをまとめて観てみた(注:Youtubeの動画を埋めているので以下、重いです)

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『沖縄 島言葉の楽園』を観たメモ

NHKのETV特集『沖縄 島言葉の楽園』を見た。沖縄を訪れて以来、その文化の独自性や多様性のとりこになっていて、特に言葉の多様性には(親が言語学的なことをやったのもあって)とても惹きつけられるものを感じたので、面白く見た。しかし同時に、ちょっと引っかかっているところがあったので、今日はそこを走り書きしてみる(きちんと勉強したわけではないのでご了承ください)。

引っかかったところを一言で言うなら、このごろ世界的に盛り上がっているナショナリズム的なところ。つまりは自分の言葉や文化を自分が大切にするということと、「われわれ」の言葉や文化を大切にしようということは違うということ。両者の間には飛躍があるのに、そこを直結させようとする演出がなんとなく気持ち悪かったということだ。例えば番組の例を挙げるなら、一言で「ウチナーグチ」といっても、比嘉さんが話されていた首里のお膝元の「うちなーぐち」と新城さんの話す市場の「うちなーぐち」では違いがある。番組の前半ではそうした多様性ということに焦点が当てられていたはずなのに、後半になると突然、「われわれ」の「ウチナーグチ」としてひとくくりになって、自治やら教育やらの方向に議論が進んでいっている印象を受ける。考えすぎかもしれないけれど、なにか恣意性がないか。

例えば、沖縄語(「ウチナーグチ」)と国頭語は確かにそれぞれのグループを形成しているのだろうけれど、番組で焦点が当てられていた奥の集落のように、実際には街々でも微妙な違いがあって、全体としては緩やかなスペクトラムを形成しているように思われる。もっとマクロな視点で言えば、番組では(権威ある)ユネスコが沖縄語は独立した言語だと認めたことを強調していたけれど、それは決して他言語と無関係ということではなくて、実際には(発音・語彙・文法などの点で)日本語・中国語・南方諸語など東アジア全体の他言語との緩やかなスペクトラムの中に位置づけられるはずだ。それにもかかわらず(「分類する」「分ける」ことが学問の基礎だとはいえ)違うものが一括りにされ、さらに自治や教育や民族性といったこととつなげて議論されはじめると、私はどうしてもナショナリズムというか、そこに「主義」があることを警戒してしまう。番組内ではそこまで露骨じゃなかったけれど、それでも「われわれ」の文化を大切にしていこう!というメッセージ性の強い後半は、単なる事実の記述ではなくイデオロギーを感じる(まぁ、逆に何も主張がなかったら番組にならないとも思うのだけど)。

少し話は変わるけれど、一時期「ヒガンバナに見る「和食」の貧しさ-伝統の捏造-」という記事が話題になった。あれはあれで極論なのかもしれないけれど、例えば「日本の歴史」とか「日本文化」とカテゴライズしたとき、皆がみんな同じものを共有していたと思うのは大きな勘違いだと思う。それは「江戸文化」「下町文化」「長屋文化」といくら再分化したところで変わるものではない。同じ長屋に暮らしていても、田舎からきた出稼ぎと生粋の江戸っ子では、生活の多くの点が共通していながら、また多くの点に違いがあったはずだ。

話を戻すと(もう自分でも何を言ってるのか分からなくなりつつあるけど)、確かに文化・伝統を継承して行こうという思いと行為は大切で、特に今回取り上げられたように喪失の危機に晒されている琉球などの諸言語・文化においては、教育や自治を通じて積極的に再評価・再普及を図ることが重要だと思う。けれど、自分の文化・伝統はあくまで自分の暮らした土地・社会・家庭だけの特殊性を持つものだという意識も同時に持つべきでは、と思う。自分が家庭で使っている言葉が祖父母の言葉、あるいは隣人の使う言葉とは異なり、共有の文化を伝承しているつもりが極めてローカルな文化で相手の文化を上書きしている可能性もあるのだということを常に意識する必要があるんじゃないかな。

私が個人的に出身校のカラーとか県民性として他の人と一括りに議論されるのが嫌いだからなんだろうけれど、こういう伝統とか言語とか文化とかは自分のアイデンティティとして持っていて、たまに人と違うところに気づいたらお互いに対照しあって「こう違うんだー面白いねー」くらいに思う程度でいいんじゃないだろうか。

余談だけど、番組の最後で引用としてイングランドとスコットランドの話が出ていたけれど、これだってどちらもひとくくりの社会ではないしね。例えばイングランドについては、特にサッチャー政権後は北部の炭鉱地域とロンドン近郊で経済・文化的温度差が広がっているし。「イギリス」と言わずに「イングランド」「スコットランド」をそれぞれひとつの「国」として取り上げているとき、そのまとめ方に恣意性があることは意識する必要があるんだろうな、と思うわけです(なぜ「イギリス」という大きな単位で議論しないのか、逆になぜ「エセックス」「ミッドランド」といった小さな単位で議論しないのか)。

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