『言の葉の庭』から「大人」のあたりのこと

『言の葉の庭』の感想ではなく、あくまでこの作品を出発点として思ったことについて(と言いつつ、作品そのものの感想やネタバレも多少は含む)なのでご了承ください。

作品に関しては、映像は相変わらずのクオリティ、文句なしに綺麗。音楽や効果音も、監督ご自身が言っていたとおりすばらしい(音楽が天門さんでないことに関しては、正直「えー!」って思ってしまった一人なのだけど、実際に見たら柏大輔さんの楽曲は凄くしっくりしていて納得)。ストーリーに関しては、27歳という立場、母が古典の教員であり、自分も一度は教員を目指したことがあるという立場からは、肯定的・否定的のいずれの部分もあるかな。モノローグが多い割に、詩歌が思ったほど出てこなかったところがちょっと残念だったとか、エンディングの感情の爆発は鬼気迫るものがあったとか、いろいろ細かいことも言いたいのだけど、一言でまとめるとしたら、全体として生々しくて“節操のない”話、それでいて、ごく普通にありうる美しい話。

で、この作品では、やたら大人びた15歳の男とやたら子どもじみた27歳の女が主人公になっているのだけど…今日、書こうと思ったのは後者(ユキノ)に関してのこと。具体的に言うと、こういう「大人」じみてないオトナが増えたなぁ…っていうこと。

ユキノは教師なんだけど、学生にナメられ、子どもの言うことを鵜呑みにする親から糾弾され、挙句の果てには保身に走る上司と同僚からも見放され、鬱になって通勤できなくなってしまう。そんな中、公園でタカキに出会い、距離をとりつつも、最後はタカキに心を打ち明ける。保守的な私にとっては(+自分のことも棚に上げれば)、生徒にナメられて人生に転び、挙句の果てに生徒にだきつくなんて、なんてだらしなく、情けなく、節操のなく、不潔なおとななんだろうと思う。でも、同時にすごくよくある話だとも思う(「ありそう」ではなく、実際「よくある」)。

この作品には、別の大人たちも出てくる。いつまでも子離れできず、子どもの自立に拗ねて「一回りも下のカレシ」のもとに家出するタカオの母。ユキノと付き合っていながらも手を差し伸べることなく、彼女が鬱になり、別れてから(上辺だけは)優しく接する体育教師。どれも実際「よくある」タイプではないかと。

私がユキノを見ていて連想したのは(ちょっと前になっちゃうけど)『崖の上のポニョ』の宗介の両親だった。『ポニョ』の中で、主人公の宗助は両親を「コーイチ」「リサ」と名前で呼び、親と子どもは互いに対等な立場をとる。これに関して、子どもに「お父さん」「お母さん」と呼ばせないことで子供の役柄に逃げ込むことを許さないようにしている、という意見にはなるほどとも思った(+実際に宮崎監督も、宗助がおとなと対等な位置関係にあることを示したかったのだろう)けれど、どちらかというと私は逆の立場をとる:「おとなが親の役柄から逃げ出している」ほうが重く大きいのではないかと。そして私は、保守的だし凡庸でもあるけど、やっぱりリサやタカオの母は親を演じなくてはならないと思うし(演じるのをやめるなら子どもの自立後か…こっそりと)、ユキノは教師を演じ続けなければいけないと考えている。「その役割を担った以上は、ちゃんと責任感持てよ…」というか。

別に星一徹がごとき「強い親」や父権的・母性的な教師がいいとも思わない。けれど、親子関係や師弟関係は本質的に非対称性のあるものなので、全くそうしたところのない親や教師というのは原理的に不可能だ。だからそれを否定する人、あるいは守れなかったり耐えられないような人は、特に教師や親という優位に立つ側としては不適格だ(そうした優劣関係の存在そのものを否定する意見もあるけど、私はそれは幻影に過ぎないと思う)。でも、そうした向いてない人が、そうした役職を担うことが増えてきていると感じる。

感情的な「子どもじみた」人って昔からいるし、人間だもの、誰しも多かれ少なかれ「大人を演じ切れない」ことだってあると思うんだよ。問題なのは、現代のおとなが「大人としての自信やアイデンティティを喪っている」だけならまだしも、それを「ありのままの自分」として正当化するということ。言い換えれば、ロールプレイを全うする責任感から逃げて、本来なら見せるべきでない相手にダメな自分像を曝露し、結果として甘えてしまうこと。多分そうしたオトナは増えている。それでいて残った心の隙間につけいるかのごとく、空虚な「オトナ」アピールがCMに氾濫していることは、もう誰もが気づいているはず。

もしリサやコースケが(意識的にせよ無意識的にせよ)親としての自信がないから、「ママと呼ばれるのが苦手」「子供と友達感覚で接したい」と思い、お友達親子という選択をするのだとしたら、それは誤っている;選択自体の是非ではなく、選択の理由が間違っている。あるいは、もしユキノが生徒に対して相対的優位に立てない、あるいはタカキと“一人の人間として”向かい合いたいのなら、彼女は教員を辞めなくてはならない(実際、彼女は辞めたけど…)。人生、転ぶことはよくあることだけれど、それでも崩してはいけないディセンシーがある。堪えきれずに崩してしまうことだってあるけれど、それは反省すべきことで、少なくとも堂々と「こういう人間ですから(キリッ」アピールをすればいいというものでもない。

で、何を思ってるのかというと…壮大に脱線したなぁ、と反省しつつ先週のことをいろいろ思い返すわけだけど、感じていたこと端的に言えば、もっと「大人」として強くならなきゃいけないな、というシンプルなものだったりする(今更か!!)

人間って、醜く儚いからこそ共感もできるし、美しくもあるんだとは思う。だけど特に「雨宿り」というか、あがいている側からすれば、演じ続けていていてほしい立場ってあると思うんだよ。それは親であったり、パートナーであったり、あるいは教師や医師かもしれないけど。あまり完璧すぎるのも逆効果なんだけど、少なくとも「ありのままの自分」と称して、脆さとか愚鈍さを曝露してはいけない立場ってあると思うんだよね(うまく言語化できない…)

プライベートになってしまうのだけど、先週、おとなの方々の大人気ない部分を目の当たりにすることが多かった。それは、時として醜い自己主張だったり、群れ意識だったり、「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」だったり、情動の爆発だったり。どれも、例えば向上心だったり共感だったり、それ自体は決してネガティヴじゃないものの裏返しなんだと思うんだけど、不適切なTPOで露見したために醜く見えてしまったのだと思う。程度にもよるけど例えばユキノやリサの場合、それが親や教師という役を損なっている(と、私には映る)。

と同時に、そうしたことは自分の醜さも意識化させるわけで。いまの私は学生という身分に甘え、醜い「ダメな生徒でーす!」「ダメな先輩でーす!」アピールで済ましているけれど、このままではいけないと思う。同僚はいいとしても、クライアントに仕事の悩みや不安をほのめかすことなんて絶対にあってはいけないし、クライアントに「対等ですっ!」アピールをすることは責任逃れになると思う(人間的に尊重することと、関係の非対称性を黙殺することとは別問題だと考える)。だから、もっと責任を負って、役を演じる覚悟がをしなくてはと。

ぐだぐだ書いたけれど、正直いまでも私にはよく分からない。おそらく、完璧に「大人」を演じるのも望ましくない(そもそも無理だ)し、かといって儚さや醜さばかりを曝露してしまうのも望ましくないわけで、結局は「さじ加減」ていうことになるんだろうけど。でも、今の時代は「うつ」を産み出し続けてきた前者への反動から、あまりにも「おとな観」が後者に偏りすぎているように感じるので、もうちょっとバランスを模索していくべきなのではないかというのが、本作を見て私がいろいろ思ったことです。

賛否両論あると思うのだけれど、自分のなかで今もやもやしていることをまとめたらこんなところ。

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