35歳になりました。

アラフォー。ついになってしまった、という感じである。

「アラサー」も20代後半では自虐的に自称していたものが、30代前半に入るとむしろ言い訳がましいので言わなくなっていた。そして今日、遂に「アラサー」が虚偽なので言えない、という年齢になってしまった。

知り合いの方は分かると思うのだけど、私は20代ほぼずっと大学生をやっていたこともあり(ごめんなさい両親)、結構最近まで周囲が20代半ばという環境だったので、自分もなんとなく20代気分で来てしまった。だけど3年前に転職して、周囲に同世代がいなくなったことで「年齢らしくしなくては…!」と思うようになって、嫌でも自分の年齢を意識するようになった。さらに、エレベーターで鏡をみてはシワやら白髪やらが目立ち始めた姿に老化を感じ、その過程で「35歳」という年齢に怯えるようになった。「35歳」を気にした理由は、ひとつにはウェブサービスとか使ってて(というかマーケティング一般で)35歳が年齢層のボーダーになってて、それも35歳~49歳で一括りにされることが多いので(いわゆるF2 or M2)、「もう40代の扱いなんだ…」ということで意識されたのだと思う。

落ち込むだろうな、と思ってはいたけど、正直かなり、予想以上に落ち込んだ。私の場合、なんとなくこの年齢までにはついていると思っていた技術も能力もない、ということが絶望的だった。そして、それでも若者なら「可能性」という唯一無二の価値があるのだけれど、それすら無くなってきているというのが一番絶望的な気持ちにさせられた。いや、どっちもゼロというわけではないのだろうが。

キャリアパスとしては落ちぶれるばかり。資格試験の勉強も、大学卒業前からやるぞやるぞと「やるやる詐欺」に終わり、はや6年が経った。いつか大学院留学してwet labの(いわゆる試薬とか実験動物とか使う)研究をするんだ、と思っていたが、現実は大学院進学からはどんどん離れる一方だし、コミュ障とプライドゆえにコネも減る一方だし、さらには新型コロナウイルス騒ぎで留学も遠ざかる一方だ。なんか最近、何も考えずに例のジョブズのスタンフォード大での講演やら何やら、「贈る言葉」的な動画をやたら漁ってたんだけど、今考えたらなんとなく無意識に焦ってるんだろうなと思う。

プライベートについても、周囲は結婚して、出産して、家庭を築き、自分の家庭に専念するようになっていく中で、残った私はひたすら社会的に孤立していき、たまに同じように人生こじらせた独身組と飲むくらい。いや、中学校の時の英語教師が「結婚したからって疎遠になる奴はおかしい」って言ってたけど、そりゃ疎遠になると思うわ。家族は家族、運命共同体、一方で所詮は友達なんて他人だもの…

もう人生嫌になったので、今日は有給とって、ひとりで動物園行った。カピバラをいっぱい、いっぱい擦ってきた。空しくなるだけだった。何やってるんだ、私。これが空いてるんだったらまだそこまで辛くなかっただろうけど、よく考えたら今日は連休前の金曜日なので、同じように有給をとったのだろう家族連れとカップルがいっぱいいて楽しそうだった。片道200 kmのドライブ、私の中古車はエアコン利かないので辛かった。帰りはファミレスでステーキとカキ氷食べた。ステーキは硬かった。なんて日だ。サイテイだ。

正直もう人生飽きた呆れた解約したモードなのだけど、なんかのCMであったように「生きているのは面倒だ だけど死ぬのも面倒だ」というか、正直死ぬのは怖いし嫌なので、なんとなく頑張って生きていこうと思う。少なくとも、自分のこれからの人生、まだ今がいちばん若いのは事実なので…

…とりあえず、35歳おめでとう、ぢぶん。

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アンガーマネジメントのイベントに行ってきた。

表題の通り。派遣先の職場で一度ブチキレて以降、MK5(= マジ切れ5秒前)エピソードを反復しており、悩んでいたところ職場に案内が来ていたので行ってみた。

まず先に内容と関係ないこととして、日本法人の代表理事をされている安藤さんは凄かった。話聴いててもそうだし、特に質疑応答見てると、頭キレるだけじゃなくカリスマ性が凄いなって思う。コミュニケーション関連の団体はいくつもあるけれど、アンガーマネジメントに限れば本邦では(多分)資格的にも実能力的にもこの方の独り勝ちなんだと思われる。

内容もよかった。キーワードとして、まず怒りは悲しみ・つかれ等から構成される「第二次感情」であること、了解されやすい怒りとは「素直」で「明確な基準」があり「人のため」であること、また怒りのマネジメントを伸ばす上では「言語能力」「共感力」「自己肯定感」が有用だということ、この辺が私的には重要というか目新しい知見だった。

アンガーマネジメントという視点から語られているけれど、結構コミュニケーションの基本として一般化できるというか、いろんな人が違う形で表現している原則みたいなところの話も多かったと思う。例えば「呆れた」という言い方で表現される怒り、これは人によって軽い怒りだったり、怒りを通り越した激昂だったりとかなりの差があってかみ合わないという話。これは(旧師の言葉を借りれば)「違う土俵で相撲をとる」というか、定義づけしないで言葉を使ってるから、同じ言葉で違うものをイメージしていて齟齬をきたすっていう話だなと。あと、事実と思い込み・妄想(科学用語でいえば「考察」か)を分けること、怒りを定量化すること、といったところも、本来ならば基本的リテラシーとも言うべきところだろう。

…が、そんな基本的なことも意外とできないもんなんだよな。私も教養学部で、ここらの「モノの考え方」をしこたま鍛えられた(はずなんだ)けれど、いまだにpoorです(そして当然、業務の結果もpoorだ)。今日の話の中でも「知ってる」と「理解する」は違うって話があったけれど、実際に自分の頭と体を使って反復練習しないと使いこなせるようにはならないんだよね(プラトンのように「分かってればできるはずだ!」とおっしゃる方もいらっしゃいますが…)。機会があったら応用講座くらいは受けてみようかなと思った。

ちなみに事前診断では「頑固ヒツジタイプ」でした。怒りの強度高・持続長・頻度多で、怒り耐性小…ってちっさ。人として最低じゃねーか。

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“John Lewis Christmas ads, 2007 to 2013” from the Guardian

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「世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていく」

近頃、思っていることなのです。先日、外国人記者クラブの前で宮崎駿さんが喋ったことは。

フィルムがなくなって、私たちが使っていたセルもなくなって、絵の具で塗ることもなくなりました。それから背景を描く時にはポスターカラーを使っていましたが、ポスターカラーすら、もう生産は終わるだろうと言われています。筆も、良い筆が手に入りません。それから、紙がこの1、2年で急速に悪くなりました。私はイギリスの「BBケント」というケント紙を、ペンで描くときは愛用していました。とても素晴らしい、僕にとっては宝者のような紙が、すっと線を引くと、インクが滲むようになりました。インクが使えなくなりました。

何か、世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていくようです。ですから、アニメーションのことだけ論じてもしょうがないんじゃないかなと思います。

ずっと飲んでいたあの紅茶やら、好きだったあのお菓子やら(食い物ばっかだな)、いつしか美味しくなくなったのは、慣れてしまったか、はたまた年かと思っていたのだけれど、どうもやっぱりちがうのかも。

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札幌の人のパーソナルスペースの狭さ。

札幌に引っ越してきて1ヶ月くらい経った。ここで、私が街中を歩いていて未だに慣れない…というか率直に言ってフラストレーションに感じていることがひとつあるので書いてみたい。それは札幌の人のA.T.フィールドの狭さだ。

つまりはパーソナルスペース(他人に近づかれると不快になる距離)のことなんだけれど、これが札幌の方は非常に狭いなと思う。あるいはA.T.フィールドが狭いのではなく、A.T.フィールドに入り込んだ赤の他人には無関心というだけなのかもしれない。電車の中でも、繁華街でも、ちょっと私にしてみれば「ありえない!」と感じてしまう近さまで平気で入ってくる。雑踏ならまだしも、閑散とした道ですら至近距離(すれ違いざまに風を感じる距離)を通過されることが少なからずあって、凄く圧迫感を感じる。「袖触れ合うも他生の縁」とかいう言葉があるけれど、そんなこと言ってたら縁だらけになるんじゃねーかってくらい赤の他人と袖が触れ合うことが多くて、潔癖症な私としてはかなりストレスが溜まる。

また、おそらくそれとも関連するんだろうけど、凄く近いところで何かするときに声をかけてくれないのも気になっている。例えば、うっかり気づかずごみ箱の傍に立っていると、ツカツカっと無言で近づいてきてゴミを捨てる(今日なんてベチャベチャした生ゴミを放り込まれて「!!」ってなった)。商品棚の前でいろいろ選んでいると、とつぜん目の前にぬっと現れて商品を取っていく。どっちも気配りの足らない私にも非があるけど、だからといって、突然無言で寄ってこられると不気味で怖い。「すみません」とか一言でもかけてくれれば、こちらも「あ、ごめんなさい」と身を引くわけで、お互いにコミュニケーションが成り立つのに。逆に、こちらが道を開けてほしいときとか、電車でもうちょっと詰めてほしいときに「すみません」と声をかけても、やっぱり動いてくれないので、もともとそういう習慣がないのかもしれない。

他の人がどう感じているのか分からないけれど、家族にこぼしたときにはみんな同じことを思っていた。でも私は、これについて(少なくとも家族以外には)不平不満を言うつもりはない。言う勇気もないし、そもそも文化の違いに過ぎないと思うので、言う筋合いもないから(おそらく札幌の人にしてみれば「なんでそんなこと気にするんだ!?」って話なんだろう)。けれど、いくら後天的なものとはいっても、パーソナルスペースって「生理的に無理」という感覚を引き起こすものだし、せめてなんで札幌の人はA.T.フィールドが狭いのか?そもそも本当に狭いのか?当の本人はどういう意図なのか?てなことを知りたいのだ。

自分でもいくつか理由を考えてはみたけれど、どうもしっくりこない。他人に興味を示さない、というだけならモバイルデバイスの普及による現代病なんだけど、ここで取り上げているのは明らかにそれとは違う(スマホいじってて周りに気がつかない、とかではない)。北国の人、特に北海道の人は寡黙で我慢強いって言われているから、そのせいかな?とも思ったけれど、青森とか他の街で似たような経験をしたことはない(し、そもそも”一部の傍若無人な振舞いを他の人が我慢している”っていう構図ではないので我慢強さ云々は当たらないように思う)。北海道は広いし、小さなコミュニティで暮らしてた人が多いから、他者の存在に寛容なのかな?とも思ったけれど、札幌は大都市としての歴史が長いのだから農村文化に理由付けを求めるのは誤りだろう。「道民は自分勝手な運転をする」とは聞いたことがあるけど、これも単純に自分勝手なだけなんだろうか(この結論は一番避けなくてはならないように思う)。そもそも、この現象は札幌だけでなく、道民全体について言えることなんだろうか?

誰か、これについて意見・参考文献等お持ちの方がいれば、コメント(もしコメントを閉じた後ならtweet)頂ければ幸いです。

P.S. ちょっと調べたら樺沢のシカゴ日記様が真逆のことを書かれていてビックリした。な、なるほど…

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