教育の勉強でもしたほうがいいなこりゃー

今月頭に演奏会が終わって、ようやく心の整理ができてきたっつーか
もーつまんないことやーめよ!って気になってきました♪♪

部活って、確かに社交スキル↑↑なのは分かるんだけど…
…なんか、こう、もっとマシな時間の使い方があるような気がしてならない。

そんな気分なんで、これからは自分のキャリアアップを考えて
もうちょっと違った時間の使い方をしていこうと思う!
今日はそれについて書いてみるんよ!
…でも恥ずかしいから畳むんよ (ノω`)

ええと、実は私、大学時代に教員免許を取ろうと思ってたんだわ。
結局、進学先が教員免許取れない学部だったんで諦めたんだけど、
最近また、もう一度、教員免許を取り直してみようかなぁと思い始めています。

とは言っても、正直かなり適当な思い付きであって…
恥ずかしながら、具体的な行動はまだ何も起こせていないんだよねー。
不足している単位を通信などで補えるのかとか、高いコストを支払えるのかとか、
そもそも教員にならないだろうに、並走して目指すべきなのか、と疑問は山積みなんだけれど
とりあえず大学卒業後の教員免許取得を目指す人のためのページさんなどを見つつ
どんくらいまで行けるのか、ちと頑張って夏休みに模索してみるつもりっす。

そんなことを思いついたのはなぜかというと、
やっぱ認知神経科学?とか精神医学?とかに携わっていきたいなら
児童や青少年の発達の現場を見ないとダメだろJK、と感じたから。
今後育っていく後輩たちのプライベートに関わることはできないし、そんな気もないけど
僭越ながら、教育現場の一つとして関わっていくことはあるかもしれないので
それだったらきちんと、教育について学んでいくべきだと思ったんだよニャ

そんなわけで、今日の記事ではHAPPY CAMPUSというサイト様をおかずに
最近、教育について漠然と思ってること、まとめてみたいと思います。

見ていただければ分かる通り、HAPPY CAMPUSっていうのはレポート売買サイトなんよね。
大「脳」洋航海記さんの記事で知ったんだけど、これ、個人的にちとショックだった。

大学にはシケ対って制度がある。
要は試験対策として、クラス内のみんなに科目を振り分けて
担当の委員が試験対策プリント(略して「シケプリ」)を作るという制度。
…東大から波及してか、ウチの学校にもあります。

個人的には、こういうシケ対制度は悪くないと思ってます。
(むしろ今、私はシケプリの管理者をやらせてもらってたりするし)
というのも、こうして作られるシケプリ(あるいはレポート対策のレポプリ)って
担当委員がちゃんと文献もまとめてくれたりして、とてもクオリティが良かったりする。
そのままコピーしてレポート作る、とかってのはどうかと思うけれど
使い方によっては、最高の補助教材として機能すると思うのです。

だけど、HAPPY CAMPUSみたいのには、凄く違和感、というか嫌悪感を覚える。
レポートを売買するというのは、法的には問題ないとはいっても…なんだかなぁ。
金さえ稼げればいいのかよ、コピペまでして大学来たいのかよ、って思う。

でも、こういうビジネスが成り立ってるということは、それなりに需要があるわけで
そういう姿勢で大学に来てる学生っていうのは、勉強しに来てるんじゃなく
マジで、大学に来たのは、学歴ロンダリングのため…ってことだろ?
…あのさ、頼むからさ、そういう奴ぁもう、爆発しちまえよ(笑)

でも、シケプリ売買そのものよりショックだったのは
さきほどの大「脳」洋航海記さんや、5号館のつぶやきさんの記事
それにコメント欄に満ちている、高等教育に対する失望感です。
大学関係者自らのコメントとして
「ぶっちゃけ大学なんてもういらないよな m9(^д^)プギャーwww」というのは
実際、大学に通う者の一人としては、はっきり言って、相当、萎えます。

…で、こういう流れを見ていて思った。
たぶん今、この国では、教育がとっても軽視されている。

私の場合、母や、母方の祖父が教員だったから、そんな風に思ってるのかもしれない。
だけど実際、教育は経済的な枠組みの中でしか評価されてなくなっているし、
そもそも親も企業も、教育にブランドのラベリング以外の何者も期待していない。
教育行政は何を目指したらいいか分からないままアレコレ実験をやってる感じだし、
教育者はとりあえず手元の、喫緊の指導に追われていて、周りを俯瞰する余裕がない。

きっとそんな状態だから、学問なんて意味のない根性試しだって言われてしまうんだ。
本当は、もっと教育(あるいは「子育て」って言ってもいいのかな)って
重要な役割があったはずだと、私は思うんだけど…
でも、じゃあ実際どうしたらいいのかって言われると、私にも分からんです。ハイ。

でも一つだけ、言えることはあると思う。
何も学ばないまま、誰でも教育ができると考えるのは、非論理的だし、無謀だし、不遜である。

原則的に、一芸は多芸に通じない。
よい研究者だから、あるいはよい医師だから、よい企業人だからといって、
よい教育ができるという根拠は、全くない。

…ここで再び、話を大学に矮小化させてもらうと
それでも私は、大学という学びの場は、有意義だ(った)と言いたい。
(…もちろん、私自身モラトリアム人間ですから、擁護派にしかなりえないんだけどな!)

うまく言語化できないんだけど、大学の本来の目的というのは
ある特定の思考方法をマスターする、ということにあったはずだと思う。
それは、いまだにほとんどの博士号が、理系・文系を問わず
Doctor of Philosophyという名称で呼ばれていることに反映されている。

教養として、人間がどういう考え方をしてきたのかを学ぶことは
思考の柔軟性、多様な物事の見方につながっていく補助線だと思う。
その上で専門に進み、スペシャリストとしての技術を身につけることで
「全体を見渡せる力」+「訓練を積んだ専門的思考」という商品価値がつき、
社会に自分を売り出せるようになるんだと思う。
…まぁ、ぶっちゃけ別に方法なんていくらでもあるんだけどさ!
そういう意味では、あくまで大学という選択肢も有価値だ(った)と思うんだよ。

だが、まぁ、日本の大学に関して言えば、
特に近年は実学っていうか、上でいうところの後半に当たる、専門課程だけで成り立ってきた。
単なる職業訓練学校とか、モラトリアムな空間で終始してしまっているので
もはや高等教育機関として機能してないって辺り、私の生活感覚からも納得してしまうところがある。
まぁ、いんtよん?の私の「せいかつかんかく(笑)」なんてなんの根拠にもならないけど(笑)

むしろ最悪だと思うのは、しばしば教育者に教育者として自覚がないこと。
それは薬学部時代に、とある院生のアンケート用紙に書かれていた
「大学は研究機関である以前に、教育機関であることを忘れないでほしいと思います」
という印象的な一言(複数なので「一言たち」)に、凝縮されていたと思います。

例えば先日、せっかく学長と話す機会があったので、
思い切って教養教育との連携の重要性をアピールしてみたのだけれど
学長には、教養部には基礎知識を学ぶ場所という認識しかなく、会話が成り立たなかった。
…ヌカにクギ、トーフにカスガイ、ウマのミミにネンブツの世界。ザ・諦めの境地
(彼にとってみれば、医学部はあくまで職業訓練学校、技術学校という認識なんだよねぇ。
でも、はっきりいってそれだったら、大学を名乗るのはやめるべきだと、私は思う…)

その他にも「えっ!これが大学…?」と、げんなりさせられるシーンは少なからずあります。

例えば、出席点だけで単位がもらえる、しかも内容は中高レベルの教養課程。
例えば、準備不足で、何が言いたいのかが全く意味不明な講義(結果として時間も延長)。
例えば、全体の中における、自分の研究テーマの位置付けを意識していない(ような)講師。
例えば、できが悪いと思った(らしい)学生を見切り、適当に追い出した(らしい)指導教官。
例えば、「ボクはお医者様なんだぞ!」ばりに、頑として患者に道を譲らない医療関係者(← 笑)
(→ 信じられないと思うけれど本当に生活感覚(笑) )

さすがにウチももう2○歳ですし、手取り足取り教えてくりゃれ?とは思わんけど
最低限、最初の道しるべとか、俯瞰図を示してやるのが、教育者としての責務だと思う。
教える以上、教えるための技術ってものがあるだろー、と。

しかしね、ここまで教える(あるいは学ぶ)側としての自覚が無いとなると、
というかそれ以前に社会人としての常識知らないとかねぇ…もう正直どうにでもなぁれ☆

…ここまで、理想論ばかり並べてしまって、ちょい恥ずかしいデス
でも、そんな現状を見ていると、自分が自分の理想に恥じない生き方をするために、
教育者としてのスキルを学ぶことは必要だなぁ…と思ったわけなんだひょ。
まぁ、いずれアカデミックを去るにせよ、残るにせよ、
後輩に必要なことはきちんと伝えられる人間でありたいと思うし、目指して損はない…はず!

  • ̃Gg[͂ĂȃubN}[Nɒlj

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