出発点
ブログの記事を整理していたら、ずいぶん昔のメールのコピーが出てきた。確か、医学部に編入しようかどうしようか迷った知人から「キミはなんでわざわざ医学部に入りなおそうと思ったの?」って訊かれて書いたものだと思う。
…なつかしいなぁ。素朴だし幼稚、場所によっては気がふれてる!どうかしている!と言われそうだけど、基本的な想いは今でも変わらない。恥ずかしいけれど、これは何度でも確認するべき出発点だし、私の本音として明らかにしておくべきことだと思うので、このまま載せておくことにする。
ブログの記事を整理していたら、ずいぶん昔のメールのコピーが出てきた。確か、医学部に編入しようかどうしようか迷った知人から「キミはなんでわざわざ医学部に入りなおそうと思ったの?」って訊かれて書いたものだと思う。
…なつかしいなぁ。素朴だし幼稚、場所によっては気がふれてる!どうかしている!と言われそうだけど、基本的な想いは今でも変わらない。恥ずかしいけれど、これは何度でも確認するべき出発点だし、私の本音として明らかにしておくべきことだと思うので、このまま載せておくことにする。
『一晩中泣き明かした30歳若手女性研究者と書く我が国にはゴシップ新聞しかないらしい』という記事を読んでいて、ちょっと違和感を感じた。
この記事の言っている通り、問題の一点目は実際に何をやったのかを伝えずに「よく分かんないけど、とりあえずすげぇことやった小保方さんはどんな女性でどんな服を着てうんぬん…」という話が始まること。単純に、メディアに科学の科の字も分からないような人しかいないからなんだろうけれど、何年経ってもそういう記者を育てようとすらしないというのは、一体どういうことなのか。
そして二点目、先進国として一番アカンと思うのは、未だに公式の場に性差を持ち込むところ。海外でも、ぶっちゃけプライベートでは「男らしさ」「女らしさ」はヘタすると日本以上にうるさいんだけど、絶対にそれをビジネスに持ち込まない。それを日本のメディアはなぜ「女ならではの発想」「女はピンク!」という昭和な発想に走るんだろうね。割烹着は何らかの個性を示唆してはいると思うけど、どうしてそこで「よっ、おかあさん!」「リケジョ!!」という短絡が起こるのか。
ただし、研究成果ではなく研究者の人となりにこだわることは、私は別に悪いとは思わない。日経系の番組然り、『プロフェッショナル』然り、日本の人間は“有名人の人となり”がどういうものかが好きだ。というか、それは必ずしもこの国に限ったことではない。STAPについて「発見が何なのか、どのように貢献するのかに記事のスペースが割かれ、小保方博士の年齢、性別、服装、ラボの装飾に関しては一切書かれていまん」というイギリスだって、あのワトソンが『二重らせん』を書いている(まぁ、彼はアメリカ出身だけど)。それはある意味でナチュラルなことだ。だってSTAP細胞にせよHiggs粒子にせよ、一般の人がどれだけ興味があるだろう?どれだけ重要な発見であるかを簡略に分かったら、あとはその成功者がどんな人となりなのか、どうやったら自分もそうなれるのか、いわばロールモデル探しに興味が行くのは全然悪くないこと。ただ、それは本とか雑誌の特集とかでやるからいいのであって、最初に事実を報道する新聞がそこに行くのは優先順序の分別がなく、頭が悪い。
また、リケジョもメディジョも必ずしも蔑称ではなく、自分たちを呼ぶときに使われている。というか(それを強化する社会的構造があるからなんだろうけど)自ら「女らしさ」を職場で戦略的に使っている人が少なくないというのも、私の身の回りの現実だったりする。メディアが性差別を垂れ流し、それを人々が貪食し、調子づいたメディアがまたそれを垂れ流す、というこの国の問題は、凄く根深い。
いまさらながら…初春のお祝いを申し上げます。この一年が皆様にとって幸くあらんことを。
年末年始はとにかく落ち着かなくて、思わず家を飛び出して群馬を旅して、新潟まで行って、そこから夜行列車でとんぼ返りして、大学で初日の出を見てた。クラスメートには「どうかしてるでしょ…というか普通に友達になれないわ」とまで言われたのだけど、個人的にはこういう時間も悪くないじゃん?と思う。
まぁ、こんな時間の過ごし方ができるのもそろそろ終わりに近いけれど、ふわふわできるうちはふわふわ死守して行こうと思う。そんなわけで、今年もよろしくお願いいたします。
学会発表、行ってきます。
もう気持ち的に疲れて何もやる気がおきない、という状況で準備は散々だけどね。まぁ、これは仕方ない…こういうのって、締め切りをダラダラ延ばしたところで出てくる結果は変わらないものだと思うし。ひとまず念のために2箇所に入稿したポスター、1つは翌々日には届いてて、もう1つも今日取りにいくだけなので、会場に穴を開けないという最低限のところは守れる。
アラサーになって未だにケンカばっかしてるけど、なんだかんだ言っても甘えがちな私を赦し、気遣ってくれる両親には感謝です。たとえ私がいま死んでも、棺の前で泣いてくれるだろう唯一の存在。
それにしても、不可抗力的な不安要素もいっぱいあって大丈夫なんだろうか。日本には関係ないや~みたいな体であんまり報道されていないけど、米国の政府機関は予算問題で一部止まってしまっているし(個人的にはPubMedうんぬんより、行きたかった国立公園が閉まってることの方がイタい)
あと台風。代わる代わる来る今日この頃だけど、26号がフライト直前にドンピシャで来そうな感じ。普段テレビで、他人の飛行機が飛ばずにうろうろしているのをニヤニヤ見ている私だけど、いざ自分の番となるとやっぱりおろおろしているっていうね。
まぁ、この辺は心配したところでどうにもならないので、もう今日は寝て、明日は明日の風が吹く…に任せようと思う。ということで、以下ゴミツイートまとめ。
『東大入試 至高の国語「第二問」』を読んだ。最初手に取ったときはすっごく感動したんだけど、最後の第5章が何かおかしい。なんとか話を大団円に持ち込もうとしたのか、論理の飛躍や議論のすり替わりが多くて混乱する。でもまぁ、それを考えに入れても非常に面白い本なのでオススメです。やっぱり東大の問題って、メッセージというか哲学のようなものがあって好き。
それはそうと、この本によれば東大の旧第二問では「死を主題とした文章が出題され続けてい」たという。これは本当だろうか、本当だとしても著者の言う通りの解釈でいいのか。第5章では「歴史に殉じることで、自己を獲得する」とか「自己を食わせよ」「食わせる(献身する)ことで実現される自己」とかいった表現がいっぱい出てくるのだけど、これがとてつもなく気持ち悪い。これじゃナチス・ドイツで国民を熱狂させたハイデガーの議論そのまんま、また「国のため」「人類のため」という名目ですぐ国家に足元を掬われかねないよ。
そもそも、死を意識して始めて生が輝くなんて、やっぱり陳腐だしチープだし、単純におかしいと思う。もっと違う回答はないのだろうか、淡々と日々を愛おしみながら生に集中する生き方は。